「青雲塾」は、昭和22年(1947)、敗戦によって荒廃した祖国の国土と人心の復興再建を目的として、中曽根康弘が、故郷である群馬県高崎において始めた思想運動です。
敗戦直後の日本は、多くの国民が従来の価値観や生活指針、目標を失い、そうした混沌とした中で共産主義が全国を席巻しつつありました。中曽根はこれを憂い、自らの考えである日本の歴史・文化・伝統に沿った新しい日本を再建すべく決意し、旧内務省の官職を辞して、郷里・高崎へ帰り青年運動を起こします。敗戦によって自失した青年達と真摯に向き合い、青年がなすべきこと、青年こそが国の再建の中心となるべきことを説いてゆきました。そうした活動はやがて人々の共感を得て大きな支持のうねりとなります。新憲法の下で初めて実施された昭和22年4月の総選挙で中曽根は、全国最年少の28歳で見事、国会議員として初当選を果たし、政治家の道を歩み始めます。 中曽根は、この地に一本の柱を立て、毎日、日の丸の国旗を掲揚し、敗戦にあっても日本民族の矜持を失うことなく、個人の人格の練磨と共に愛郷心を育成し、アジアの一員としての自覚と誇りを高揚、国家、社会への貢献等を目標に掲げ青年の啓蒙と育成に努めました。そうした活動はやがて「青雲塾」運動となって多くの青年婦人、人々を糾合してゆきました。
中曽根は「青雲塾綱領」や「修学原理」「我が宣言」を提唱し、自らが塾長となってこの活動を牽引しました。やがて活動は全国に広がり、4万人を超えるまでとなりましたが、塾生からは青雲塾が目指す理念活動の拠点を求める声があがり、群馬県の認可のもとに昭和30年(1955)財団法人青雲塾会館を設立。多くの塾生、支援者の寄付、浄財を得て昭和31年(1956)、現在の地に「青雲塾会館」が建設されました。 青雲塾会館は地域の人々の学舎として、学識経験者の講演や集会、会合、映画会、結婚式等を通じて、塾生のみならず多くの人々の利用の便に供されてきました。遠方の学生が受験や試合のためにしばしば宿泊し、中曽根塾長と古くより親交のあった版画家の棟方志功氏が逗留したこともあります。ホール・日本間では、華道、茶道、箏の勉強会や座禅会等が開催されました。また、駐車場では、年始には鳶職の方々によるはしご乗りが披露されたほか、高崎山車まつり(夏の恒例行事。名称は現在のもの)の際には、町内の子供たちによるお囃子が賑やかに響く等、地域や人々に親しまれる施設としてその歴史を刻んできました。
平成13年(2001)には、新たに国の認可を得て、中曽根康弘政治活動関連資料の収集整理を事業に加え、さらに誰もが参加し学びえる場としての青雲塾講座を開設し、その理念に基づく活動を続けてきました。平成10年(1998)名称を財団法人青雲塾に改名。平成15年(2003)、旧青雲塾会館は老朽化のため建て替えられ、現在の建物となり、また、平成18年(2006)には中曽根康弘の政治家としての足跡をたどる資料館を増設、その政治活動資料とともに写真や映像、関連品を陳列し多くの人々の政治に対する理解の一助としてきました。平成22年(2010)には、公益法人制度改革に伴い、群馬県から公益財団法人青雲塾として認可され、資料収集、青雲塾講座に加え、次世代の青少年の育成を目的に中曽根康弘賞論文を募集するなど一層の公益活動に努めてきました。 青雲塾講座は中曽根康弘賞論文表彰式を含め年4回開催されたほか、時局に合わせた記念講演会も開催され、全体を通じて76名の講師の皆方々に登壇していただいたほか、のべ約1万名の受講者に参加していただきました。その他にも中曽根塾長の時局講演をまとめた青雲塾レポートを随時会員に発行・配布するなどの活動を続けてきました。 令和2年(2020)6月、公益財団法人青雲塾は発展的に解散。所有していた資料及び施設を公益財団法人中曽根康弘世界平和研究所に寄贈し、令和2年(2020)11月からは引き続き「青雲塾」の通称で親しまれつつ、新たな財団のもとで「中曽根康弘資料館」として運営されています。
大正7年(1918) 、群馬県高崎市生まれ。昭和16年(1941)東京帝国大学法学部卒業。昭和22年(1947)衆議院議員に初当選。科学技術庁長官、運輸大臣、防衛庁長官、通商産業大臣、行政管理庁長官、自由民主党総務会長、同幹事長を歴任。昭和57年(1982)11月から昭和62年(1987)10月31日までの5年間に渡り内閣総理大臣として内政外交の舵取り役を務めました。 内政面では「戦後政治の総決算」を掲げ、戦後の高度成長によって肥大化した行財政制度にメスを入れ不可能と言われた行政改革を実現しました。当時、大きな赤字を抱え、国労、動労の二大労組による頻繁なストによって国民生活に多大な支障をきたし、国の税金を巨額投入していた日本国有鉄道を解体、市場競争原理のもとに分割・民営化。それと共に将来の通信技術の進展に伴う情報化社会の到来を見越し、またバイオ技術の発展による新たな産業分野開拓を目指し日本電信電話公社と日本専売公社の民営化を断行しました。そうした民営化はサービスの飛躍的な向上と共に今日の国民生活に大きな貢献を果たしています。 また、外交面では「国際国家日本」を提唱。レーガン米国大統領との間で互いを"ロン・ヤス"で呼び合う信頼関係を基に強固な日米関係を構築。先進国首脳会議(サミット)では西側諸国の団結を訴え、レーガンと共にサミットをリードし、そうした西側諸国の結束がソビエト社会主義共和国の崩壊へと繋がりました。また、アジアの一員としての日本外交を標榜しつつ、ヨーロッパなどとも多面的な外交を積極的に展開し世界に日本を発信。各国との友好関係を深めると共に世界における日本の地位向上に努めました。 総理退任の翌年、昭和63年(1988)、財団法人世界平和研究所(現・公益財団法人中曽根康弘世界平和研究所)を設立し、自ら会長となって外交や安全保障について積極的に発言し、世界に対し日本の発信に努めました。同研究所では安全保障、外交等に関する調査研究、国際交流事業を行う他、優れた論文に対し「中曽根康弘賞」を授与しこれを顕彰しています。 平成9年(1997)、その国家に対する功労によって大勲位菊花大綬章を受章。令和元年(2019)11月29日、101歳で逝去。それに伴い従一位に叙され、大勲位菊花章頸飾が追贈されました。
1、同志は、礼儀を正しく、信義を重んずべし。
1、同志は、謙虚に学び、識見人格を磨くべし。
1、同志は、父母を敬い、家庭を温くし、社会に奉仕すべし。
1、同志は、世界に眼を開き、祖国を愛すべし。
1、同志は団結し、郷党の中堅国家の柱石となるべし。
1、教科書
一瞬一刻の人生が教科書であり、苦楽恩讐のすべてが神の与え賜うた教材である。
1、教 室
教室は同志の心にある。真心を以て通ずれば、皆同じ教室に在って共学しているのである。
1、基 本
責任感と行動力が生まれなければ、学んだとは言えない。
修養は、勇気を以て心の内外の抵抗を乗り切ることに始まる。
1、順 序
修学の順序は、修身、斎家、治国、平天下である。
1、目 標
生きたままの最高の芸術品に、その人生を完成して世を去ることを修学の目標とする。
洋々たる朝が我等を待っている。この暁の風雪を突破したら、やがて太陽は妖雲を払い、燦然たる慈光を万物に浴びせるであろう。
明治の維新、昭和の革新、これを貫く一億民族の生命力、駸々として進み、脈々として流れる民族の生命力は何物もこれを阻止することは出来ない。
今こそ我等は敗戦民族の悪夢を払い、旧日本と訣別し、日本人の為の新たなる日本と、全人類の為の正しき世界平和秩序とを打ち樹てるため、歴史の本流を開拓し、昭和革新の人柱となるを誓おう。
明治憲法下の日本は第一憲政の時代である。マッカーサー憲法下の日本は第二憲政の時代である。来るべき昭和の革新下の日本は第三憲政の時代である。
我等は今や風雪の嵐の中に第三憲政の黎明に立つ。嵐よ来たれ。我等の青雲の志は巨巌の如く動かず、嵐を鎮め太陽を迎えるであろう。
同志諸君、
我等は茲に、明治維新以来志士先人の遺した建設の大業を承け、一億の民族行進の陣頭に立って祖国を興し、世界の運命を拓こう。
1、原爆、水爆を抱え、世界は有史以来の異常体制下にあって危機の断崖に立つ。我等は人類の叡智に訴え、創造と調和の世界観を以って、対立と闘争を排除し、危険兵器の公正なる国際管理、列国の軍備縮小を断行せしめ、民族の自決と協力の正義に則る世界恒久平和と国際民主主義の実現を主張する。
特に、アジア人としての自覚に基づき、アジア復興については謙虚な立場に立って奉仕する。
1、来るべき創造文明の時代に対応し、労働と科学政策を中軸に国政を一新し国民的協同体を建設する。このため新日本国民憲法を創定し、ポツダム・サンフランシスコ体制よりの前進、外国軍隊の完全撤退促進、領土其他失われた国権の回復、世界運命一体の自覚に立つ国際協力の緊密化を図り、昭和の革新を推進する。
1、友愛連帯の精神の下に社会生活の調和を図り、郷土の産業を越こして交通を開き、特に戦争の犠牲によって傷ついた者をいたわり、悲しめる者を慰め、同胞愛社会を建設する。
1、青年の教育を刷新して不抜の信念を涵養せしめ、自ら因習を打破して生活を改革し、誠心一貫、以て郷党の中堅たらんことを期する。
1、我等は国民的協同体を建設し、独立国家としての尊厳を速やかに回復する。
1、我等はアジア的民主主義を建設する。 1、我等は新しい創造時代の文明に向かって、世界及び祖国の体制を改革する。 (以上、昭和二十二年制定、昭和二十八年追補)